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ベネズエラで生れ,3歳でパリに移住。パリ音楽院でマスネに作曲を,デュボワに和声を学ぶ。少年時代から美声の持ち主で,自作の歌曲の弾き語りはサロンで人気を博した。優雅で甘美な旋律を持つ多数の歌曲のほか,舞台作品も多く,晩年にはパリ・オペラ座監督に就任した。なお,生年は1875年説もある。
ユトレヒトでオルガン製作者の家庭に生れ,ハーグ音楽院で学んだ後,ライプツィヒ音楽院でモシェレスやライネッケに師事。短いオランダ生活の後,ドイツに戻りエッセンで指揮者,作曲家,ピアノ教師として活躍した。多作な作曲家ではないが,ピアノ作品や歌曲のほか,チェロ協奏曲やヴァイオリン協奏曲を残す。同時代のドイツの音楽家たちとの関わりも深く,ピアノ連弾曲「3つの小品 Op.2」はクララ・シューマンに献呈されている。
ロシア(現ラトヴィア)のリガで生れ,ライプツィヒ音楽院でピアノやオルガンのほか,ヴァイオリンも学ぶ。ロシアで15年ほど教職に就いた後,ドレスデン時代を経てヴィースバーデンに住み,おもに室内楽曲やピアノ作品を書き続けた。多作な作曲家として知られ,そのデュオ作品はいずれも親しみやすい。特に演奏時間も適当で効果的な2台のピアノのための作品群は注目に値する。
ドイツ西部のヴィツヘルデンで生れ,はじめは父に,次いで兄にピアノと理論を学び,後にはフルートも学んだ。 1791年にアムステルダムに行き,音楽教師やピアニストとして活躍し,創設にも関与したエルディツィオ・ムジカではフルート奏者のほか,指揮者も務めた。このオーケストラは特にモーツァルトの作品をオランダに広めるのに貢献し,ヴィルムス自身もピアニストとしてモーツァルトやベートーヴェンのピアノ協奏曲を演奏している。またバプティスト教会のオルガニストを勤め,19世紀のオランダ国歌の作曲者としても知られる。7曲の交響曲や5曲のピアノ協奏曲のほか,多数の作品を残し,連弾のためのソナタは下記のほかに「二長調 Op.7」「ハ長調 Op.31」がある。
ハリコフで生れ,ハリコフ大学で法学を学んだが,ロシア音楽協会の音楽学校でピアノを学び,更にパリではデュヴェルノワに,ウィーンではレシェティツキーに師事。ペテルブルク音楽院教授としてプロコフィエフを教えている。 1924年,フランスに亡命。生涯に残した作品は多くはないが,グラズノフやグリンカ等の多くのロシアの作品を連弾用に編曲している。
類い稀な長寿に恵まれたピアニスト,作曲家。ロシアで生れ(正確な生年は不詳),ペテルブルク音楽院でグラズノフに学ぶが,1907年に家族とともにニューヨークに移る。1911年のデビュー後はヴィルトゥオーソ・ピアニストとして自作のほか,同時代のラヴェルやストラヴィンスキーらの作品を演奏し,1920年代にはアメリカで最も有名な音楽家であったが,その後,急速に忘れ去られたものの,近年に再評価されつつある作曲家の一人。特に初期の作品は強烈な不協和音と野蛮なリズムが特徴で,当時の「未来派」音楽として知られた。現在,オーンスタインの作品は,著作権保侍者である御子息のSevero氏によってパブリック・ドメインとしての使用が許諾されているため,IMSLPで公開されている。また Leo Ornstein(http://poonhill.ipower.com/index.htm)のサイトでは,楽譜や録音のファイルも豊富に公開されており,「未開人の踊り Wild Men'Dance」や「飛行機に乗って自殺 Suicide in an Airplane」といった注目作品や,オーンスタイン自身による演奏を聴くこともできる。
イギリスからフランスに渡った貴族の父を持ち,ロンドンではピアノをクラーマーに師事した後,パリではレイハに音楽理論と作曲を学ぶ。歌劇や交響曲も残したが,室内楽,特に合わせて70曲ほどの「弦楽四重奏曲」や「弦楽五重奏曲」で知られるほか,ピアノを含む室内楽も多い。
プラハ音楽院でピクシスにヴァイオリンを師事。ヴァイオリニストとしてデビューし,劇場オーケストラでも演奏していたが,1821年にプラハを出て各地を演奏旅行中,フュルステンベルク公と出会い,ドナウエッシンゲンの宮廷楽長の職を得て,22年以降,約40年間その職にあった。当時,優れた作曲家,ヴァイオリニスト,ピアニストとして知られ,2曲のオペラ,7曲の交響曲のほか,多数の管弦楽曲,器楽曲,声楽曲を残す。編曲を含めた楽しい連弾作品も多いものの,それらは残念ながらほとんど知られることなく,「忘れられた作曲家」の一人。
ライプツィヒ音楽院でヤダスゾーン,ライネッケ,タイヒミュラーらに師事。グリーグの出版社への推薦により作曲に専念し またレーガーの薦めでオルガン作品の創作に向かい,オルガンとハルモニウムのための作品が主要作品となった。ピアノ作品も数多く,初期のロマンティックな作風は,後にはドビュッシーやスクリャービンからの深い影響を示すようになるが,いずれも極めてピアニスティック。ピアノ・デュオのための作品は下記の1曲のみだが,ハルモニウムとピアノのためのデュオ作品も残されている。
マンハイムの著名な音楽家一族に生まれたが,わずか1歳で家族とともにロンドンに移住。パリに居を構えた時期もあったが生涯のほとんどをロンドンで過ごした。クレメンティに師事し,表情豊かなレガート奏法を得意とする大ピアニストとしてベートーヴェンからも高く評価された。作曲家としても8曲の「ピアノ協奏曲」や100曲以上の「ピアノ・ソナタ」を残したが,今日ではそれらは忘れ去られ,わずかにビューローが編集した「クラーマー・ビューロー練習曲」にその名をとどめている。
ダンツィヒ(現ポーランドのグダニスク)で生れ,ライプツィヒではライネッケに,ドレスデンでキルヒナーに師事し,22歳以降はドレスデンに定住し,その地で亡くなっている。作品番号は200以上を数えるが,今日ではわずかなフルート作品が知られている程度。初歩的な連弾作品にも再評価されるべき優れた,そして楽しく親しみやすい作品がある。ショパンの作品を数多く校訂(シュタイングレーバー版)した。
パリで生れ,理工科学校に入学したが病気のため音楽に転じ,1890年にパリ音楽院に入学し,マスネやフォーレらに学ぶ。フォーレから多大な影響を受け,古代旋法から無調や12音技法まで,極めて幅広い語法を使ってオペラを除く広範なジャンルの作品を200曲以上残した。全3巻の『和声論』はじめ著書も多く,理論家,評論家としても活躍。オリジナルのデュオ作品は下記の作品のほか,2台のピアノのための『組曲 作品6』と連弾曲の『4つのフランスのソナチネ 作品60』がある。
ケーニヒスペルクで生れ,ベルリンのシュテルン音楽院でピアノをビューローから,作曲をウルリヒから学ぶ。後にはスイスのヴィンタートゥーアやチューリヒで活動したが結核のため若くして世を去った。出世作のオペラ「じゃじゃ馬馴らし」のほか,交響曲,ピアノ協奏曲,合唱曲,室内楽曲,ピアノ曲を残したがいずれも作品数は多くない。
ケストヘイでユダヤ系の貧しい両親のもとで20人兄弟の一人として生れ,苦学しながらもウィーン音楽院でヨゼフ・ベームからヴァイオリンを学ぶ。優れたヴァイオリニストやピアノ教師としても活動したが,作曲家としても1860年の「弦楽四重奏曲 Op.8」が高く評価され,「交響曲 第1番 田舎の婚礼 Op.26」をはじめ,歌劇やヴァイオリン協奏曲,室内楽曲やピアノ作品も残している。作曲をおもに独学で学び続けたためか,独創的な個性を発揮する作品もある。当時のウィーンでの名声は高く,留学中のシべリウスの指導もしている。
兄フィリップと同じくザムターで生れ,15歳でベルリンのクラク音楽アカデミーに入学してクラクに学び,後には兄とともにアカデミーのスタッフに迎えられる。 1881年に兄弟でベルリンにシャルベンカ音楽院を設立。 1891年にはニューヨークにも分校を設け,アメリカやカナダでヴィルトゥオーソ・ピアニストとして活躍した。作曲家としては4曲のピアノ協奏曲のほか,歌劇や室内楽曲,そして多数のピアノ作品を残した。なかでも「ポーランド舞曲 Op.3-1」は当時の大ヒット作品。連弾作品も多いが,今日ではほとんど演奏されない。
ポズナン近郊のザムター(現シャモトゥウィ)で生れ,ベルリンのクラク音楽アカデミーでR.ヴュエルストとH.ドルンに学び,後にアカデミーの理論と作曲の教員となる。l881年,弟クサヴァーとともにベルリンにシャルヴェンカ音楽院を設立。1891年,弟とともにアメリカに渡るが翌年には帰国してシャルヴェンカ音楽院で教職を続けた。演奏家としてよりも作曲家,教師として活躍し,2曲の交響曲や管弦楽曲,室内楽曲のほかに,3曲の「ソナタ」含むピアノ作品も多数残した。
生地のセント・ペテルスブルク音楽院でピアノを学び,ライプツィヒ音楽院でもヤダスゾーンやライネッケに学んだ後,ウィーンに出て個人的にレシェティッキにも師事。ウィーンを活動の中心とし,「学術ワーグナー協会」の指揮者も務めた。作曲家としては2曲の「ピアノ協奏曲」や室内楽等の大作も残したが,現在ではシュトラウスIIによるワルツのパラフレーズやごく少数のピアノ小品が知られているに過ぎない。しかし優美で親しみやすく,甘美な曲想とピアニスティックな演奏効果を持つデュオ作品群は再発見される価値が十分にある。なお下記の作品のほか,0p.58-1は "Valse-Paraphrase" , 0p.79-2は "Scherzino" で,いずれも2台ピアノ作品。
ポズナン近郊のザムター(現シャモトゥウィ)で生れ,ベルリンのクラク音楽ヴァイオリニストを志したが,ライプツィヒ音楽院在学中に作曲家に転向。今日ではピアノ小品,「春のささやき Op.32-3」のみが知られているに過ぎないが,ヴァーグナーとリストから強い影響を受け,オペラをはじめ4曲の「交響曲」,3曲の「ヴァイオリン協奏曲」,1曲ずつの「ピアノ協奏曲」と「ピアノ・ソナタ」や250曲以上の「歌曲」など,あらゆる分野に多くの作品を残した。ピアノ・デュオ作品は,音域を広く使った厚い書法により豪快な響きを発する作品が多く,下記の作品にはノルウェーの民俗音楽臭はほとんど感じられない。下記以外のオリジナル連弾作品として「8つの小品 Op.71」と「ノルウェーの舞曲と歌 Op.98」がある。
イギリス人の母,ピアニストで作曲家のドイツ出身の父を持ち,スコットランドのグラスゴーに生れた。父に,次いでロンドンで王立音楽大学の前身の国立音楽養成校で学び,メンデルスゾーン奨学金を得てウィーンに留学し,ドイツ音楽に傾倒してドイツに帰化した。リストにも学んで高く評価され,世界最高のピアニストの一人にも数えられたが,次第にピアノ演奏から離れて作曲に専念した。代表作の「低地地方」を含む20曲のオペラのほか,「ピアノ協奏曲」2曲や「チェロ協奏曲」,その他管弦楽曲やピアノ作品等を残した。ピアノ・デュオ作品は下記の1曲のみだが,管弦楽曲がロベルト・ケラーやレーガーらによって連弾用に編曲されている。6度結婚し,テレサ・カレーニョは2番目の妻。
マイセン近郊のゴルクで生れ,ライプツィヒ音楽院でハウプトマンやモシェレスに学び,デュッセルドルフではシューマンにも学ぶ。ブラームスの友人の一人であり,「回想録」も残している。多くはない作品中にはブラームスに献呈した「交響曲 Op.20」のほか,室内楽や協奏曲等もあるが,今日それらは忘れ去られ,師シューマンやブラームスと合作してヨアヒムに献呈された,ヴァイオリン・ソナタ「F.A.E.(自由だが孤独)」の第1楽章が知られる。
いまだに経歴不詳の作曲家で,ほとんど唯一の資料,ゴールドストーンとクレモウによるCD, "Paradise Gardens(Troy 183) " の解説書によると,いかにもフランス風の名前はペンネームで,本名はJoseph Denis Cayrouらしく,この名の作曲家による数曲のピアノ小品がフランスで出版されている。下記の『音楽の夜会』のほか,『2人の小さな友達』『野ばら』『イタリアのタランテッラ』(いずれもロンドンのオーゲナー社刊)といった連弾作品がある。
ワルシャワで生れ,同地の音楽院でモニューシュコに学び,その後ベルリンでキールに学ぶ。1880年以降ワルシャワに戻って母校でポーランドの次世代の作曲家を育て,生徒の中にはシマノフスキやフィテルベルクの名もある。 またワルシャワ音楽協会を運営し,ワルシャワ・フィルハーモニーの指揮者も務めた。作曲家としては歌劇や3曲の交響曲,管弦楽曲や室内楽があり,細かく数えると100曲ほどのピアノ小品も残している。下記以外の連弾作品として「クラコヴィアク集 Op.25」「ポーランド組曲 Op.28」「マズル集 op.38」「6つのポロネーズ op.42」のほか,連弾と混声合唱のための「遍歴楽士 op.18」がある。
ヴェストファーレン州のリューデンシャイトに生れ,グラーツで没した。ベルリン(1838~39)やライプツィヒ(1840~45)で学び,ライプツィヒではメンデルスゾーンやシューマンと知り合い,教えを受けた。1846年からはウィーンに定住し,ブラームスやヨアヒムの友人となった。音楽学者として著名で,資料に基づいて作品を校訂し,主題目録を作った最初期の一人で,その成果はキンスキーによるベートーヴェンや,ドイチュによるシューベルトの主題目録の基礎となり,ベートーヴェンのスケッチの研究が後世に与えた影響は計り知れない。作品は少なく,おもにピアノ小品とピアノを伴う室内楽。
シュルーズベリーで音楽家の家庭に生れ,鍵盤楽器とヴァイオリンを習得。18歳で当時,イギリス最大の作曲家とされるT. アーンの知遇を得, 師事するためロンドンに移る。1764年, 二人の娘の勉学のためパリに移り,後にヨーロッパ各地を歴訪して『フランス・イタリアの音楽の現状』(1771刊),『ドイツ・オランダの音楽の現状』(1773刊)を,また4巻からなる『音楽通史』(1776~89刊)を出版し,音楽史学の基礎を築いた。こうした功績に隠されがちだが,作品としては多数の室内楽,声楽曲を残した。ロンドンのチェルシー没。
クララ・ヴィークの異父弟に当たり,クララの紹介によってシューマンやメンデルスゾーンと知り合う。ペルリンでジークフリート・デーンに,その後ライプツィヒではモシェレスやゲーゼに学び,1874年以降,ベルリン高等音楽学校でパウル・ユオンらを教えた。またブラームスの友人でもあった。作品は少なく,作品番号は47に止まるが,下記以外の連弾作品として「組曲 Op.7」「ジーグ Op.29」がある。また IMSLPには演奏時間30分を越える4楽章構成の大作,「交響曲 Op.30」の作曲者自身による連弾版があるが,連弾で高い演奏効果を発揮するのは難しいと思う。
ダブリンに生れ,ロンドンでクレメンティに師事し,師とともにクレメンティ社のピアノのデモ演奏をしながらヨーロッパ各地を演奏旅行し,師がロシアを去ってもペテルブルクに残り,作曲家として名声を得,またピアニストとしても歌うようなタッチによる詩的な演奏は高い人気を博した。「夜想曲」の創始者としてショパンにも影響を与え,リストはそれらの9曲を連弾用に編曲している。下記以外にも数曲の連弾曲がある。モスクワ没。
スロベニアとの国境に近いフラウエンタールで生れ,幼児期に義兄からフルート,ヴァイオリン,ピアノ等の楽器や通奏低音奏法を習う。18歳でウィーンに出てデッソフに学ぶ。弦楽のための「セレナード 第1番」(1874年)の成功で作曲家として認められ,後にはウィーン音楽院教授としてマーラーやシベリウスなど,多くの著名な作曲家を教えた。親交があったブラームスからも高い評価を受けていた。いずれも5曲の「交響曲」と「セレナード」のほか,「ピアノ協奏曲」や3曲の「ピアノ・ソナタ」をはじめとするピアノ作品を残している。ピアノ連弾作品も数多く,今日では不当に忘れ去られているが,復活すべき傑作も多い。
オーストリアに移民したフランス貴族の末裔で、グラーツで生まれ、ウィーンでオットー・デッソフに師事。1863年ころブラームスと知り合い、生涯、尊敬の念を持ち続け、その作品の普及にも尽力した。64年、一時はブラームスのピアノの生徒でもあり、優れた音楽的才能と才気、そしてその美貌を謳われたエリーザベト・フォン・シュトックハウゼンと結婚し、グラーツに戻った。夫妻は72年、ライプツィヒに移り75年ライプツィヒ・バッハ協会を設立。85年からはベルリン高等音楽学校の作曲科教授を務め、ヴィースバーデンで死去。ブラームスと夫妻の間の多数の書簡からは、3人の交流ぶりや当時の音楽界の状況が分かり、誠に興味深い。作曲家として、作品は交響曲、大規模な声楽曲から室内楽曲、歌曲、ピアノ作品と多岐に渡り作品番号は109に達し、作品番号のないものも50余に及ぶ。これまで「ブラームスの亜流」とされることが多かったが、下記のピアノ・デュオ作品からはそうした傾向は見られず、これほど親しみやすく効果的で、しかも緻密で高度な手法によるロマン派の作品群がこれまでほとんど無視されていたのは不思議というほかはない。
生地のブダペストの国民音楽学校で学び,後にウィーンで,更にジュネーヴでも学び,1908年以降スイスに居を定める。現在では,クライスラーがヴァイオリンとピアノのために編曲した「踊る人形」(原曲は指揮者のニキシュに献呈された全7曲のピアノ独奏曲集,「人形芝居」の2曲目)のみが知られているに過ぎないが,数々の舞台作品と多数のピアノ小品は,当時広く人気を博した。ハンガリーの民族的要素は薄く,「忘れられた作曲家」の一人だが。親しみやすいデュオ作品は顧みる価値がある。
「マノン」や「タイス」に代表される,フランスの人気傑作歌劇の作曲家。パリ音楽院でトマに学び,後に自身がパリ音楽院教授を勤め,ショーソンやアーン等を教えた。多数のロマンティックな歌劇と歌曲で知られるが,管弦楽曲や器楽曲も残し,ピアノ作品としては1曲の「ピアノ協奏曲」以外にも多くの小品を残した。下記以外の連弾作品に「舞踏会の情景(ペストの思い出)Op.17」がある。
プラハ音楽院でディオニス・ヴェーバーに,ウィーンではアルブレヒツベルガーとサリエーリに師事し,またベートーヴェンと懇意になる。 1826年から20年間をロンドンで過ごし,ピアニストや教師として活躍した。その後,かつてベルリンで教えたこともあるメンデルスゾーンによってライプツィヒ音楽院にピアノ科主任教授として招かれ,その地で没した。作曲家としても作品番号は150にも及び,8曲の「ピアノ協奏曲」や多数のデュオ作品を含むピアノ作品を残したが,今日それらの大部分は忘れ去られたままになっている。ピアノ・デュオ作品は多数なだけでなく,様式的にも古典派的な性格が強いものから完全にロマン派様式のものまで,作品の規模も初歩的な小品からヴィルトゥオーゾ的な大作まで,それらの様態はさまざまだが,いずれも興味深く,注目すべき作品が多い。
モスクワで生れ,モスクワ音楽院ではヴァイオリンをフジーマリーに,作曲をアレンスキーとタネーエフに,その後ベルリン高等音楽学校でバルギールに学ぶ。短期間,ロシアで教職に就いた後,1934年に健康を害して引退するまでの間,ベルリン高等音楽学校で教えた。3曲の「ヴァイオリン協奏曲」や2曲の「交響曲」などの管弦楽曲のほか,各種の室内楽曲も残した。生涯ロマン派の様式を守り,「ロシアのブラームス」とも呼ばれたが,ロシアとドイツが混合された作風は独特の個性的な魅力がある。弟のコンスタンチンは画家として知られる。
ボンで生れ,父は宮廷楽士のヴァイオリニスト。16歳でウィーンに行きベートーヴ ェンに師事。ピアニストとしてロシアも含むヨーロッパ各地を巡り,作曲家としても高い評価と人気を得た。ロンドンで10年以上過ごした後,ボンに帰郷しさらにフランクフルトに移住しその地で没した。歌劇や交響曲,協奏曲を含むあらゆる分野に多数の作品を残し,作品番号は180余に及び, 50曲以上の各種の「ソナタ」を作曲した。ヴェーゲラーとの共著 ,『ベートーヴェンに関する伝記的覚え書き』でも知られる。マグローの "Piano Duet Repertoire (2版)" には13曲が紹介され, うち3曲にはコメントが付されているが,いずれも評価は低く,またアルトマンの目録にはなぜかこれらは全く載せられていないが,両者ともに弾いて楽しめ,聴くものをも楽しませるサービス精神に富む親しみやすい作品群は, 立派に存在価値がある。
19世紀後半の最大のピアニストの一人。ピアノの神童として11歳でパリでデビューし,欧州各国を演奏して回った後,1843年から1年ほど弟の二コライとともにベルリンで,教師として名高く,対位法の大家でもあったジークフリート・デーンに師事した。こうした経歴のため,作風はスラヴの情緒は希薄で,むしろドイツ・ロマン派に近い。ロシア音楽協会の設立や,自身も創設に協力したペテルブルク音楽院の初代院長就任など,ロシアの楽壇や教育界へも多大な貢献を果たした。作曲家としても20曲のオペラ,6曲の交響曲はじめ,あらゆる分野におびただしい作品を残したが,当時から速筆と多作ゆえの推敲不足を指摘されることもあり,今日ではそれらのほとんどが無視されている。ピアノ・デュオ作品にも,そのすべてとは言わないまでも,極めて効果的で,また魅力的で興味深い作品があり,復活されるべき作品も多いが,そのためにはこれからの積極的な「演奏の蓄積」が必要である。多くの作品が無視同然の扱いを受けているのは,誠に惜しいと言わざるを得ない。
ゲヴァントハウス管弦楽団のコンサートマスターのオランダ人ヴァイオリニスト,エンゲルベルトを父としてライプツィヒに生れ,9歳で作曲を始め,ラハナーに作曲を,ライネッケにピアノを学ぶ。1877年からオランダに移りアムステルダム音楽院の院長も勤め,ピアニストとしてもリサイタル,協奏曲,室内楽等のいずれにも頻繁に出演して高い評価を受けた。作風は後期ロマン派に属し,「ニュー・グローヴ」によれば21曲の交響曲,7曲のピアノ協奏曲,21曲の弦楽器のためのソナタを含む極めて多数の作品を残した。下記のピアノ・デュオ作品は,いずれも親しみやすくピアニスティック。