81. 「ルバートと弱音の美学…笠原純子&友田恭子 ピアノ・デュオリサイタル」

「笠原純子&友田恭子 ピアノ・デュオリサイタル」特設ページへさる4月10日(土)午後7時から東京文化会館小ホールで,「笠原純子&友田恭子 ピアノ・デュオリサイタル」*1)が行われた。

前半は連弾作品で,モーツァルト「ソナタ ニ長調 KV.381」シューベルト「幻想曲 へ短調」,そしてボウエン「組曲 第2番」

後半は2台ピアノ作品で,シューマン=ドビュッシー「カノン形式による6つの練習曲」ドビュッシー「白と黒で」シャミナード「謝肉祭のワルツ」といった,すでに有名なデュオ作品の傑作と,無名の傑作を取り混ぜた興味深いプログラムである。

この二人のデュオ演奏の特質の一端は,絶妙のルバートと「間」の取り方にあり,その特質は当夜の全作品に生かされていたが,軽快な響きで始まったモーツァルトの「ソナタ」の,特に第2楽章でそれが顕著で,絶妙な「間」の後に続くフレーズをより印象的に聴かせ,反復の際の(楽譜にはない)即興的な装飾や,強調する音の変化が,この「ソナタ」の楽しさに一層の彩りを添えていた。

やや早めのテンポで,そして密やかな「歌」で始められたシューベルトの「幻想曲」は,細部にまで配慮が行き届いた精密な演奏であった。この連弾作品の傑作は,ややもすれば全体のスケールの大きさに頼った「大ざっぱ」な演奏になりがちだが,当夜の演奏は,精密で変化に富む多数の部分を組み上げながら,それでいて密やかな冒頭から後半の巨大なクライマックスまでの鮮やかな対比と,一貫した自然な流れが感じられた。

当日,幾組かのデュオ・ピアニストも聴衆に交じっていたが,後で何人かから「ボウエンって良い曲ですね」という感想を聞いた。そのように聴かせたのは,まったくこの二人の功績である。ほの暗い響きの中にも活気がある「アレグロ」,ロマンティックなメロディが多層的に歌われる「舟歌」,軽妙なユーモアに満ちた「無窮動」のいずれの楽章も,作品が本来持つ「夢と遊び」の魅力を発揮させてくれるデュオ・ピアニストにやっと出会う幸運に恵まれた。来年で50年間も墓の中でじっと待っていたボウエンも大いに喜んだに違いない。

後半の1曲目,シューマン「カノン形式による練習曲」は,弱音を強調して,より沈潜するロマンを目指した演奏に聴こえた。無論,全6曲のうち,曲によっては抑制された歌い方の曲もあれば,たっぷりと歌われた曲もあったのだが。5曲目に頻出する「スフォルツァート」の絶妙な音量の強調と,終曲での,メロディが跳躍して上昇する際に,決して野放図に,気楽には歌わない弾き方に,ベテランとしての滋味が感じられた。

ドビュッシー「白と黒で」も面白く聴いた。2台ピアノ作品の傑作として,演奏される機会もCDも多いこの作品だが,当夜の演奏は2台ピアノ作品ながらも,まるで連弾作品を弾く時のような,慎重で精密なバランスヘの配慮によって,普段は響きの中に埋没しがちな声部までもが良く聴こえ,私には新鮮な発見があった。

プログラムの最後を飾ったのは女性作曲家,それも「サロン風作品」の作曲家として軽視されがちだったシャミナード「謝肉祭のワルツ」。前回のこの欄,「80.杜の都のデュオコンサート」でもシャミナードの「交響的二重奏曲」のことを書いたばかり*2)だが,やっとシャミナードのデュオ作品にも復活の兆しが見えてきたようだ。この上なくピアニスティックで華麗,しかも楽しさに溢れた「謝肉祭のワルツ」であるが,決して単調な演奏ではなく,次々に移り変わるワルツのテンポや音色にも工夫が凝らされていた。その親しみやすく耳に心地好いメロディ,きらびやかで装飾的なパッセージを聴けば,シャミナードがいかにピアノの機能と響きを知り尽くしていたかが理解でき,作曲家としてもっと敬意を払われて当然という思いを強くする。

アンコールは3曲。その最終曲,ドビュッシー「小組曲」「小舟にて」の最後は息の長いリタルダンドとディミヌエンドによって,まるで流れ星が夜空に長く尾を曳いて消え去るかのような,美しくもはかない余韻を残して充実した一夜のリサイタルの幕を閉じた。

【参考情報】
*1) [連弾ネット]「笠原純子&友田恭子ピアノ・デュオリサイタル」特設ページ
*2) [松永教授のとっておき宝箱]80.「杜の都のデュオコンサート」

【2010年4月17日入稿】