84. 「ラフマニノフの響き」

ラフマニノフの数々のピアノ作品といえば,現代のスタインウェイのコンサート・グラ ンドに代表される,明瞭で輝かしく,力強く,艶やかで,時には強烈な刺激に満ちた金属的な響きも,また時にはうなるような重厚な響きも出せる楽器で弾く際に,最も効果的な演奏に聴こえ,またそうしたピアノで弾くべきというイメージがある。これは私たけでなく,多くのピアノ音楽ファンに共通するイメージではないたろうか。

そのラフマニノフのピアノ作品の普及に,最も功績のあったピアニストがホロヴィッツ*1)であろう。 ラフマニノ フのピアノ・デュオ作品の録音を残さなかったのは,大変残念であるが,ホロヴィッツによるスタインウェイ・ピアノを使った演奏の録音が,ラフマニノフのピアノ作品の響きのイメージを決定付けたとしても過言ではなかろう。

ところが,こうした先入観の堅い殻に覆われたラフマニノフの響きのイメージに,一石を投じるCDがある。それがジョス・ファン・インマゼールとクレール・シュヴァリエによる,1897年製と1905年製のエラール・ピアノを使った演奏である(Rachmaninoff Suites pour pianos Zig Zag ZZT061105)*2)
このディスクには2台のピアノのための2つの「組曲」(1893年と1901年作)と,連弾作品の「6つの小品」(1894年作)が収録されており,シュヴァリエによる解説にはラフマニノフがニューヨークのスタインウェイ&サンズ社との関係を深めたのは1918年ころと書かれている。確かに1920年代の同社の広告にはE.チェンバーズによる「スタインウェイを弾くラフマニノフ」が描かれ,スタインウェイ・ピアノが「不滅の楽器」と銘打たれている。

そしてホロヴィッツにしても,それまで弾いていたブリュートナーからスタインウェイに乗り換えたのは,1926年1月のベルリン・デビューからである。その2年後の28年1月,ホロヴィッツがアメリカに到着した直後に,崇拝していたラフマニノフに会う事ができたのも,スタインウェイ社のスタッフの尽力による。そしてスタインウェイ社の地下のピアノ収納室で,ホロヴィッツは作曲者自身に第2ピアノで「伴奏」をしてもらって「協奏曲第3番」を弾く機会を得たのである。

ついでに書くと,市販の「協奏曲第3番」 の2台ピアノ版の,オーケストラ・パートの第2ピアノヘの編曲はラフマニノフ自身によ るもので,この2台ピアノ版を弾いたり,少なくとも見たことのある人ならば,現在でも「天下の難曲」のソロ・パートの音符の多さに比べ,第2ピアノの音があまりにも少ないのに驚くであろう。

後年,ホロヴィッツの言葉によれば,ラフマニノフは自分よりもホロヴィッツのほうがうまく弾けると言って,この協奏曲を自分にくれた」そうだ。無論,この作品の正式な献呈の栄誉を受けたのはヨーゼフ・ホフマンであるが。その栄誉を受けたホフマンは手が小さいためとも、作品が台わないためとも言われているが,ともかくこの作品をまったく弾かなかったというのも面白い。

さて,100年以上も前のピアノによるラフマニノフの響きは,当然の事ながら過度に金属的,刺激的な響きは一切なく,「柔らかな木質の手触り」といった風情。音域ごとの音色の違いが豊かで,そのためか,演奏上の演出のせいかは分からないが,現代のピアノによる演奏では響きに埋没しがちな声部が良く浮き出ている箇所もある。聴いた当初は違和感があったが,作品の成立年を考えるとラフマニノフ自身もこうした響きのピアノでこれらの作品を弾いたことがあったはずである。

それはそうと1942年の6月と8月,ビヴァリー・ヒルズのラフマニノフ邸でラフマニノフホロヴィッツによるデュオの私的な演奏会が行われ,モーツァルトの「ソナタ」ラフマニノフの「組曲第2番」「交響的舞曲」が演奏されている。なんと豪華なデュオ! このデュオによる演奏が録音されなかったのは,ピアノ音楽の歴史上の大きな損失というほかはない。

【参考情報】
*1) [Wikipedia(jp.)]「ウラディミール・ホロヴィッツ」ページへ
*2) [サイト]"Zig-Zag Territoires : albums et artistes de musique classique:"

【2010年6月5日入稿】