76. 「ピアノ好きにはたまらない一冊」

チャールズ・ローゼン Charles Rosen (1927- )チャールズ・ローゼン*1)というピアニストは,日本ではその知名度は高くない。それどころか,「知られていない」と言ったほうが適切かも知れない。

例えば400ページ近い「ピアニストガイド」(吉澤ヴィルヘルム著 青弓社 2006年)*2)を見ても,その名はジャンルカ・カシオーリ*3)のコンクール歴の箇所にわずかに審査員の名として登場するだけだ。「ピアニストガイド」(吉澤ヴィルヘルム著 青弓社 2006年)

実は,かく言う私も,たった1枚,40年以上も前の録音の「ゴールドベルク変奏曲」のソニーの廉価盤を聴いた経験しかない。しかし,その演奏は決して堅苦しい学者肌のものではなく,この大曲をなかなか面白く聴かせていて,相当の実力者であることを窺わせ,なぜこの人がこれほど無名なのか不思議に思ったものだ。

"Piano Notes The World of the Pianist"「ピアノ・ノート演奏家と聴き手のために」(朝倉和子訳 みすず書房)そのローゼンの"Piano Notes The Hidden World of the Pianist"「ピアノ・ノート演奏家と聴き手のために」(朝倉和子訳 みすず書房)*4)として昨年秋に出版された。これが非常に面白い。「演奏家と聴き手のために」の副題通り,ピアノ好きにはたまらない一冊で,どこから読んでも良いが,読み出すとぺージを繰る手が止まらないほどだ。

昔,ローゼンの名を知った時は「アメリカの中堅ピアニスト」くらいに思っていたが,1927年生まれで現在は80歳を優に越え,すっかり老大家となった。

リストの高弟であったモーリツ・ローゼンタールに師事したと聞くと,その経歴からも歴史の重みが感じられる。事実,本書の中にもローゼンタールから直に聞いたという興味深く貴重な逸話が度々登場する。いや,ローゼンタールだけでなく,多くの歴史的ピアニストに関する逸話があちこちにちりばめられ,これだけでも楽しめる。

目次をたどると「プレリュード」と「ポストリュード」にはさまれた7つの章は,「身体と心」「ピアノの音を聴く」「ピアノという楽器と,その欠陥」「音楽学校とコンクール」「コンサート」「レコーディング」「演奏スタイルと音楽様式」という構成。

タイトルだけを見ても実に面白そうだが,ピアニストとしての長い経験と博識,鋭い洞察力に加え,筆力も卓越しており,しかも率直でありながら常に温かいまなざしが感じられる。

例えばローゼンによれば,演奏中の「ピアニストの身振りは演奏の一部」(P.29)であり,「調子の悪い演奏でも(中略),音楽の偉大さが輝くことのほうが大切なのである」(P.130)と説く。ピアニストは「悪い」演奏をすると極度に落ち込むものだが,こう考えれば再び演奏に立ち向かう勇気も湧こう。

それでも訳のせいか,ツッコミどころもないではない。例えば「公共の場でショパンが弾いたバッハは,二段鍵盤のための協奏曲のうち一曲だけ〜」(P.164)とあるが,「二段鍵盤のための協奏曲」って,いったいどの作品? ショパンは1833年にパリで2度,リストやヒラーとともに「3台のクラヴィーアのための協奏曲」を弾いているはずだけど,この作品のこと?

そしてデュオ・ファンとしてはデュオに関する記述が少ないことも,ちょっと残念だ。本の内容全体の素晴らしさに比べれば,まさに些細な「残念!」には違いないが。

「(P.169)1900年になると,この種の音楽(連弾作品のこと。筆者注)はほとんど作曲されなくなった(そうかなあ?筆者ツッコミ。以下同)。例えばドビュッシーは円熟した連弾曲を1曲しか書いていないし(『小組曲」のこと? でも『円熟した」と言えば『〜エピグラフ』のほう?),シェーンベルク,ヴェーベルン,ベルクにはこの形式の曲がひとつもない(シェーンベルクには『6つの小品』がありますよ,先生。)。この消えゆくハウスムジークの形式になんらかの興味を示した最後の重要作曲家はブラームスだった(じゃ,レーガーやフロラン・シュミットは? 確かにブラームスほどは『重要」じゃないだろうけど…)。」

しかし,ストラヴィンスキー最高のピアノ曲は「春の祭典」の連弾版(P.199)という卓見には大賛成である。とにかく,一読を強くお薦めしたい。

【参考情報】
*1) [Wikipedia]Charles Rosen
*2) [Amazon.co.jp] 「ピアニストガイド」(吉澤ヴィルヘルム著 青弓社 2006年)
*3) [公式サイト]www.gianlucacascioli.com
*4) [Amazon.co.jp] "Piano Notes The Hidden World of the Pianist"
「ピアノ・ノート演奏家と聴き手のために」(朝倉和子訳 みすず書房)

【2010年2月6日入稿】