58. 「新緑の響き」

今はゴールデンウィークの最中,まさに新緑の時期である。木々の緑を見ていると,口に緑と言っても木の種類によって大きな差があり,同じ1本の木でも光の加減や枝や葉の重なり具合によって,その緑は微妙で豊かな階調を示している。東京あたりでは若葉の時期も終わりつつあるが,北の地方や標高の高い地域では,みずみずしい若葉の彩りもまだ見事であろう。

この時期,私にとって「新緑の響き」を強く連想させる作品が,エルガー*1)の弦楽合奏のための「セレナード ホ短調 作品20」である。

この作品は1892年に,3回目の結婚記念日の妻へのプレゼントとして作曲されたが,この作品はエルガー自身による連弾版もあり,スコアとともに1893年に出版されている。

エルガーは1889年5月8日にピアノ(一説にはヴァイオリンとされているが,実際にはそうした楽器演奏も含めて音楽全般だったのではなかろうか)の弟子であったキャロライン・アリス・ロバーツと結婚したので,今年の5月8日はその日からちょうど120年目に当たることになる。この時エルガーは32歳目前,アリスは40歳であった。

1899年に代表作の「創作主題による変奏曲『工ニグマ(謎)』」が演奏されてから,エルガーは次第に名声を獲得し,ついにはイギリス最大の作曲家として認められるようになるのだが,それまでの不遇の時代の支えとなったのは妻のアリスであった。

若い芸術家が社会的名声や経済的に恵まれないのは,エルガーに限ったことではないが,当時の保守的なイギリスの社会では音楽家の地位は低く,陸軍少将の娘であったアリスがエルガーと結婚したことは,上流階級のお嬢さんが下層階級の男と結婚したように思われていたとは実に意外であり,今日の我々の社会階層観からは想像もできない。

恐らくエルガーはかなり屈折した感情を持っていたであろうし,そうしたエルガーにとって,年上のアリスの支えは不可欠のものであったろう。

この「セレナード」の正式な初演はベルギーで1896年,ロンドンでは1905年だが,多分,この作品をプレゼントした1892年の結婚記念日には,二人は連弾でこの作品を弾いたのではないだろうか。ちょうどグリーグがニーナとの婚約を祝して,シューマンの交響曲「春」を連弾で弾いたように。

この「セレナード」の連弾版はシブリー音楽図書館にあり*2),IMSLPにはシブリーと同一のファイルだけでなくスコアもある*3)ので,両版を見比べることもできる。まったく便利で有り難いことだ。

両版を比較すると,エルガーはスコアに極めて忠実ながらも,ピアニスティックな効果を上げるようにわずかに変更している。この作品は3楽章で構成され演奏時間はそれぞれ3分,5分,2分半ほどである。

第1楽章はAllegro piacevole.ホ短調であり,「新緑の響き」とは言え,暖かく明るい陽光を浴びて輝く新緑よりも,短調の雰囲気はもう少し沈んだ情景を感じさせる。「若葉寒む」という言葉があるが,季節にしては意外に低い気温の中で,まだ来ない初夏を静かに待ち続ける風情である。穏やかに音階的に上昇し,そして下降する主題が幾度も現れるが,楽章の最後ではこの主題は自然短音階でしかも音階の第5音で終わっており,そうした終止も未来への期待を強調しているように感じられる。

第2楽章はLarghetto.ハ長調。そして第3楽章はAllegretto.ト長調〜ホ長調。私はイギリスでの季節の移ろいを実感したことはないが,ともに長調で柔和なこれらの楽章には繊細な若葉の色彩が感じられる。この連弾版,既にゴールドストーンとクレモウによって録音 (The Planets etc.:TROY 198)されている。

あまり「偉業」が続くのもどうかと思って異なる書き方にしたが,特に第2楽章での静かでしかも雄弁な表現は,やはり偉業に違いない。

ともあれこの作品に関して私に共感していただければ,この時期,ピアノの前にいるだけで音楽の中に新緑を堪能できるであろう。

【参考情報】
*1) [Wikipedia(ja)] エドワード・エルガー
*2) [シブリー音楽図書館] "Serenade für Streichorchester. Bearbeitung für Pianoforte zu 4 Händen [vom Componisten]. Op. 20
*3) [IMSLP] "Serenade for String Orchestra, Op.20 (Elgar, Edward)"

【2009年5月3日入稿】