39.「連弾演奏の芸術性を披露・・・瀬尾久仁&加藤真一郎
ピアノデュオ・リサイタル」

梅雨明け前にもかかわらず,猛暑の7月17日,新宿の東京オペラシティ・リサイタル
ホールで「瀬尾久仁&加藤真一郎 ピアノデュオ・リサイタル」*1)
が行われた。

プログラム中の両氏による「ごあいさつ」には,「家庭音楽としての連弾の楽しさと,
芸術作品としての深さを味わっていただければうれしい」と書かれ,
最初にブラームスの「ハンガリー舞曲集」から第1〜5番が演奏された。

第1番が弾き始められた時に,何年前だったであろうか,彼らの師でもある
タール&グロートホイゼンの来日公演の際,確かアンコールだったように記憶しているが,
この作品が演奏されたのを思い出した。

その時は,あまりに誇張された表現に,思わずのけ反ってしまったものだが,
この日の両氏の演奏は,「ジプシーの荒削りだが魅力に溢れた旋律を,奔放なまでに
情熱的に弾きまくる」といったこの作品に対する大方のイメージとはまったく異なり,
特に細部の表現にまで慎重な配慮が行き届いた,その意味でも十分に個性的なものであった。

良く歌い,それでいて実にこまやかな旋律の歌い口,歪みのない精密なリズム,
広大なダイナミックレンジ,濁りのない澄んだ響き等の高度な連弾演奏のテクニックを駆使して
演奏された5曲は,19世紀半ばの連弾ブームの火付け役となった娯楽的作品としての
性格よりも,大家ブラームスによる代表的連弾曲としての側面が明確に表れていた。

PとSの対話に満ちたモーツァルトの「アンダンテと変奏曲」は,
あたかも女声と男声による楽しい二重唱のようであった。

Sの加藤氏を雄々しいバリトンとすると,Pの瀬尾氏はしっとりと落ち着いたアルトであろうか。
そうそう,ブラームスでもシューベルトでも同様であったのだが,このモーツァルトも反復の際には,
さりげなく微かな変化が,あるいは時に大胆な変化が加えられて,聴衆に楽しい驚きを与えていた。

前半の最後は両氏による森山智宏氏への委嘱作品,「レッツ・プレイ・ア・デュエット!」
日本初演。2つの楽章にから成るこの作品は,連弾演奏での「手の接近による弾き難さ」を
故意にねらった作品とのことであったが,残念ながら私の席は演奏者の手が見えない位置であった。
それでも時折,明らかに普通の連弾作品ではめったにない特殊な手の配置で弾いているのが分かった。

プログラムの後半は,シューベルトが亡くなった1828年の傑作,「人生の嵐」「幻想曲」「ロンド」
の3曲。ちょうど2週間前のヤマハ銀座店サロンでの「人生の嵐」と「ロンド」の親密な演奏*2)
とても魅力的であったが,この日の演奏は広い空間での響きが的確に意識されたもので,
長大な「人生の嵐」と「幻想曲」の2曲は一瞬の緩みもないほど強い緊張感と豊かなスケールに満ち,
「ロンド」では重層的な「歌」がたっぷりと見事に歌われ,誠に感動的なシューベルトであった。

邦人作品でメモのような小さな楽譜(?)を置いた以外は全曲,暗譜による演奏であり,
プログラム全体を通して,これほどの高度な水準の演奏を繰り広げられる能力は驚異的である。

前述の「広大なダイナミックレンジ」とともに,強調すべき声部の選択も適切なため,
特に一例を挙げると「幻想曲」のフガート部分以降の盛り上がりが凄まじいほどの迫力
満ちていると同時に,各声部の動きも実に明瞭であった。

アンコールはブラームスの「ハンガリー舞曲集」から第6番が演奏され,聴衆からの盛大な拍手を浴びた。
たった一つ,個人的な希望を述べたいが,悲劇的な長い旅路の果てにようやく終着地にたどり着いたような
「幻想曲」の最後の和音,そしてこの世への惜別のような「ロンド」の最後の和音で,それらの響きが
ホールの空間に完全に溶けて消え去るまで,どうか演奏者は動かずにいて欲しかった。
ほぼ満員の聴衆は,素晴らしい演奏に強く引き込まれて,本当に極度に集中して最後の余韻まで
ジッと聴き入っていたのだから。

【参考情報】
*1) [チラシ]「瀬尾久仁&加藤真一郎ピアノデュオ・リサイタル」
*2) [チラシ]「松永晴紀シューベルト連弾曲公開講座」第2回

【2008年7月19日入稿】

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